ボリビア出血熱
(Bolivian hemorrhagic fever)

  メニュー

 TOPページ 

 日本情報 

 海外事情 

 辞典 

 医学の話 

 科学の話 

 食品の話 

 知識の宝箱 

 メモ帳 

  



更新日:
 2008年6月28日






ボリビア出血熱:Bolivian hemorrhagic fever

 1960年代初めからボリビアのサンホアキン地方で原因不明の出血熱が流行していました。1962〜64年の間にサンホアキン地方の住民の40%以上が発病し、10〜20%が死亡しました。この病気の原因解明にあたったのは、後にラッサ熱、エボラ出血熱などで活躍したCDCのカール・ジョンソンです。
 彼はパナマ運河地域の中南米研究ユニット(Middle America Research Unit)のロン・マッケンジーと一緒にボリビアに1963年5月に到着しました。最初、昆虫がキャリアではないかと疑い、7月初めに昆虫の収集を行っていました。その際にまずマッケンジーが発病し、ついでパナマ人の助手が発病しました。そして、ジョンソンが発病し、パナマのゴルガス病院に3人が枕を並べることになりました。
 彼の看護にワシントンD.C. から軍医と彼のフィアンセでCDCの研究者でもあるパット・ウエッブ(Pat Webb)が派遣されてきました。彼の回復後、米国に戻ったウエッブは機内で発病し、NIHの病院に入院しました。
 1963年9月から1964年11月の間、今度はウエッブも加わったジョンソンのチームは米国とサンホアキン、それとパナマにある彼らの研究所の間を往復していました。1964年の夏にハムスターへの接種実験の成績を調べていた際に親のハムスターの尿から新生児ハムスターに感染が起きていることをみつけました。野ネズミでも同じことが起きているのではないかと考え、野ねずみを捕獲して調べたところ、サンホアキンで捕獲した野ネズミの尿の中にウイルスが排出されていることを見いだしました。
 そこでサンホアキンに戻り、ネズミ捕りを仕掛けたところ、2週間後には同じ町の中でネズミ捕りを設置した場所では新しい患者の発生がなく、設置しなかった場所では患者の発生が続いているという非常にはっきりした成績が得られました。
 18か月間で原因ウイルスを分離し、ウイルス伝播の様式を明らかにし、実際に伝播を止めることに成功したわけです。
 ウイルスの自然宿主となっていた野ネズミはCalomys callosusです。これの日本名はブラジルヨルマウスです。
 ボリビア出血熱の流行の背景は1952年のボリビア革命に遡ります。社会革命の結果、サンホアキン地方の人達は突然、雇い主を失い、安定した食糧供給が得られなくなりました。そしてマチュポ河(マチュポウイルスの名前の由来)のまわりの比較的平坦な土地でトウモロコシ、野菜などの栽培を始めました。この場所はブラジルヨルマウスの生息地であり、無意識のうちに彼らの生息地に侵入することになったわけです。しかも彼らにとって素晴らしい食糧を供給することにもなりました。1950年代には野ネズミの数は増加し、1960年代にサンホアキンの町に侵入していきました。この時が最初の出血熱の発生に一致しています。
 ジョンソンによれば、サンホアキンの町は新世界最後のフロンテイアのようで、道路、保健施設、電話、水道など全くなく、牛の数は人口の2倍以上で町中を歩き回っていました。不思議なことに町には猫がまったく見当たりませんでした。この頃、マラリア対策でDDTの大量散布が行われていましたので、猫の死亡の原因がDDT なのか、マチュポウイルスなのか、それとも両者が加わったためかといった作業仮説にもとづいた研究も始められましたが、流行が終息したことからNIHの研究費が中止され、この研究も終わりとなりました。
 この流行の際に米陸軍の一人の軍人が感染し、危篤に陥りました。解剖の準備が始められたほどでした。先に述べたマッケンジーが彼の血液の中に抗体が含まれていることを期待して、約500mlの血液を投与したところ、抗体が本当に効いたのかどうかは分かりませんが、翌日には回復しはじめました。これがアレナウイルス感染での血清療法の最初です。


inserted by FC2 system