九谷の歴史
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更新日:
 2008年6月28日






◎九谷の歴史
 創始期の「古九谷」は明暦(1655年)頃に大聖寺藩により推進された。九谷の鉱山から陶石の発見により加賀藩の後藤才次郎が指導者として、肥前有田に赴き陶技の習得をし、九谷の地で窯を築いたのが古九谷開窯とされている。
 このように古九谷は加賀百万石文化の豪放華麗な美意識に強く影響され、独特な力強い様式美を築いた。この華やかな古九谷も元禄(1700年)頃に突如廃窯という道をたどった。指導者の後藤才次郎が没したためか、現在でも原因はさだかではない。
 古九谷が廃窯してから約80年後、文化(1806年)頃に加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯された。これより再興九谷の時代にはいり、春日山窯の木米風、大聖寺藩により九谷古窯の地で古九谷再興をめざした吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、飯田屋窯、金襴手の永楽窯等数多くの窯が出現し、それぞれ特有のすばらしい画風を作り出してきた。明治には洋絵具による細密描法の彩色金襴手の庄三風が有名となり、輸出もされ、産業九谷としての地位を築いた。

・九谷焼の工程
 採石:小松市花坂山陶石場で採石。
 粉砕:陶石を細かくスタンバーで砕く。
 水簸(すいひ):清粉になった陶石を水に浸し鉄分等の浮遊物を取る。
 坏土(はいど):余分な水分を除き、適当な柔らかさにする。
 土もみ:ヒビ、ヒズミの原因の陶土内の空気泡をなくする。
 成形:ロクロ成形。型を使っての鋳込成形。
 乾燥・仕上:高台や外側の削りやつまみ作り・縁仕上。
 素焼:約摂氏800度で8時間焼成する。肌色となる。
 下絵付:主成分が酸化コバルトの染付呉須(紺)で絵をほどこす。
 施釉(釉薬がけ):白釉は焼成後、ガラス質で透明となり、陶磁器表面を覆う。
 本窯:摂氏1300度の高温で15時間以上焼成する。
 上絵付:呉須による骨描き。五彩(緑・黄・赤・紫・紺青)の上絵具による彩色。
 上絵窯:摂氏800度〜1000度の間の上絵窯による焼成。
 錦窯(金窯):金彩、銀彩をほどこし、金窯(摂氏400度)で焼成する。

・五彩の魅力
 五彩(緑・黄・赤・紫・紺青)が織りなす幽玄の世界。今日の九谷焼には、古九谷・吉田屋・赤絵等幅広い描法の数々をすべて取得し、細かい絵を丹念に精魂込めて描き、描く、職人達の心が息づいている。
 綿密で、それでいて流れるような力強い骨書きが、白地の陶磁器に描き込まれていく。白と黒の水墨画のような絵に、まだ未発色のドボドボした色絵具をそっとのせるように置いていく。この絵具が炎により美しく発色し、五彩のガラス質に変貌する。白地の陶磁器が生まれかわる様に目を驚かされる。このようにして、骨書きの筆使いの鋭さと上絵具の重厚な濃さとによって九谷焼となる。

・絵付け工程

古九谷:明暦年間(330年前)
 日本画狩野派の名匠・久隅守景の指導によったといわれるもので、青(緑)・黄・赤・紫・紺青の五彩を用い、絵画的に完成された表現力で大胆な構造、のびのびとした自由な線書き、力強い、豪快な深い味わいが魅力である。

木米:文化年間(180年前)
 古九谷が廃窯され、約80年後、加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯され、京都の文人画家・青木木米の指導により全面に赤をほどこし、人物を主に五彩を用いて書き込んである、中国風のものである。

永楽(金襴手):慶応年間(約120年前)
 永楽和全による京焼金襴手手法で全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色した豪華絢爛な作風とともに、京焼風な洗練された美しさを見せている。

飯田屋(赤絵):天保年間(約150年前)
 赤により綿密に人物を描き、そのまわりを小紋等で全体を埋めつくし、所どころに金彩を加えてある。一見して筆舌に尽くしがたいほどの赤絵細密描画である。

吉田屋:文政年間(約165年前)
 青手古九谷の塗埋様式を再興したもので、赤を使わず、青(緑)・黄・紫・紺青の4彩を用い、模様の他に小紋を地紋様風にして、器物全面を絵具で塗り埋めた重厚さにある作風で独特の雰囲気をかもし出している。

庄三:天保→明治(約135年前)
 古九谷・吉田屋・赤絵・金襴手のすべての手法を間取り方式で取り入れ、これらを洋絵具を用いて、細密に描き込んだ彩色金襴手である。明治以後の産業九谷の主流となった作風である。







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