大相撲のお話
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更新日:
 2009年1月28日






◎大相撲(1996年1月19日)
 日本相撲協会によって行われる相撲興行のこと。横綱、大関、関脇、小結、幕内(36人以内)、十両(26人以内)、幕下、三段目、序二段、序の口で構成される。序の口が最も下位に位置する。十両から上を関取という。

◎行司(1996年1月19日)
 相撲の土俵上で両者を立ち合わせ、勝負を判定し、勝ち名乗りを授ける人。行司の階級は、立行司、三段役、幕内、十両、幕下の5段階。立行司は腰に刀を差す。(差し違いをした場合には切腹する覚悟があることを示す。)
 立行司は「木村庄之助」または、「式守伊之助」の名を受け継ぐ。他の名前も可能。足は足袋と草履を履いている。三段役からは草履を履くことが許される。幕内、十両は、足袋は許されるが、草履を履くことはできない。幕下は、裸足。

◎最近の横綱の昇進前3場所成績(◎は優勝、○は優勝同点)

  3場所前 2場所前 直 前  
千代の富士 11-4 13-2 ◎14-1 1981年 名古屋
隆の里 12-3 13-2 ◎14-1 1983年 名古屋
双羽黒 10-5 12-3 ○14-1 1986年 名古屋
北勝海 11-4 ◎12-3 13-2 1987年 夏 
大乃国 ◎15-0 12-3 13-2 1987年 秋 
旭富士 8-7 ◎14-1 ◎14-1 1990年 名古屋
 曙 9-6 ◎14-1 ◎13-2 1993年 初 
貴乃花 11-4 ◎15-0 ◎15-0 1994年 九 州

◎土俵規定
 相撲競技における競技場のことを「土俵」といい、土俵には本場所用と稽古用がある。
 土俵は四股を踏んでも足跡がつかない堅さに突き固め、砂を入れる。
 小俵は6分を土中に埋め、4分を地上に出す。
 一辺に外俵7俵と、各角に1俵ずつ俵を埋める。
 中に直径4m55cmの競技の境界線を示す円を描き、徳俵4俵とその間に4俵ずつ合計20俵埋める。
 勝負の境界線は俵の外線である。
 踏み越し、踏み切りなどを判明しやすくするために、円の小俵の外側に25cm程の幅で砂を敷く。この部分を「蛇の目」という。
 仕切り線は土俵の中央に70cmの間隔で白線を2本引く。
 正面から土俵に向かって左を東、右を西として、東西を力士の控え溜、向正面は行司溜とする。
 土俵には水、紙、塩を用意する。
 土俵が構築されたら、土俵祭を行う。

◎力士規定
 力士はまわし(締め込み)以外を身につけてはならないが、負傷者のサポーター、包帯、白足袋などは認められている。
 相手に危害を与えると認められるものは一切禁止されている。指輪などの装飾品はもちろん、包帯を止めるための止め金などの貴金属も使用禁止となる。
 十枚目以上の力士は出場のとき大銀杏に結髪し、まわしは紺、紫色系統の繻子、さがりは同色の絹を使用する。
 稽古中十枚目以上の力士はは白いまわしを使用する。
 幕下以下の力士は、木綿の黒か紫系統のまわしとさがりを使用する。
 取組の二番前から控え力士として土俵溜に位置し、勝負判定に控え力士としての責任を持たなければならない。

◎勝負規定
 制限時間は呼出が東西の力士の名を呼び終わったときから計る。制限時間は次の通りである。
 幕内:4分
 十枚目:3分
 幕下以下:2分以内
 呼出、行司は審判委員の時計係より指示を受け、制限時間による「待ったなし」をはっきりと力士に伝える。
 制限時間後の立合いで両手を下ろしたとき「待った」を認めない。また、故意に「待った」をした場合は制裁金が科せられる。
 土俵内において足の裏以外の体の一部が、早く砂についた者を負けとする。
 土俵外の砂に体の一部でも早くついた者を負けとする。但し、吊って相手の両足が土から上がっているのを土俵外に出す時、 自分の足を土俵外に踏み出してから、相手の体を土俵外に下した場合は、送り足となって負けにならない。
 吊って相手の両足が土から離れても、後退して踵から踏み切った場合は負けである。
 頭髪が砂についた時は負けである。しかし、相手を倒しながら、瞬時早く髪がついた時は負けにならない。
 土俵外にどれほど高く吊っても、また相手の体を持ち上げても勝ではない。
 締込の前の垂れが砂についても負けとならない。
 相手の体を抱えるか、褌を引いて一緒に倒れるか、または手が少し早くついても、相手の体が重心を失っている時、即ち体が死んでいる時は、かばい手といって負けにならない。
 体の機能故障の場合は別として、競技中に、行司、審判委員の指示なくして競技を自ら中止することはできない。
 前褌がはずれて落ちた場合は、負けである。
 水入後の組み直しには、前と違っている時は、力士は意見を述べることができる。
 
◎審判規則(行司)
 審判に際して、規定の装束、(直垂、鳥帽子)を着用し、軍配を使用する。
 両力士が土俵に上がってから競技を終えて土俵を下りるまでの一切の主導的立場であり、競技の進行及び、勝負の判定を決する
 勝負の判定ではどんなときでも東西いずれかに軍配を上げなければならない。
 競技を円滑に進行させ、両力士を公平に立ち上がらせるために指導と助言をする。
 両力士の手が仕切り線より出ないように注意を与える。
 両力士が立ち上がってから、「残った、ハッキヨイ」のかけ声をなす。
 審判委員より制限時間を知らせたとき、明瞭に両力士に伝えて立ち合わす。
 競技中に力士が負傷したとき両力士の動きを止め、負傷の程度により審判委員と協議の上、競技の中止を発表する。
 競技が長引いて両力士の疲労が認められたとき、審判委員の同意を得て、水を入れることができる。
 水入り後組み直した時、力士、審判委員の異議なきを確かめてから、声をかけて競技を開始させる。
 水入り後、なお勝負がつかなかった時は、審判委員の指示により競技を中止させることができる。
 競技中、力士のまわしが緩んだとき、動きを止めて締め直させることができる。
 審判の他に、土俵祭の祭主となったり、土俵入りの際はその誘導の役をする。
 階級に応じて、装束の色が変わる。
 控え行司は、土俵上の行司に事故があった場合は、その代行をする。

◎審判委員
 5人の審判委員は、所定の位置について相撲勝負の判定に加わる。
 土俵の東西に各1人、行司溜に2人、正面に1人つき、そのうち東寄の審判委員が時計係となる。
 勝負の判定を正しく公平に決定する責任があるので、行司の軍配に異議を感じたとき、速やかに「異議あり」の意志表示をして協議に入る。
 見え難い位置で勝負がついたなどの理由があれば協議を棄権することがある。
 控え力士から物言いがついたとき、これを取り上げて協議しなければならない。
 勝負の判定だけでなく、土俵上すべての競技進行に留意して、相撲競技規定に違反のないようにする。
 土俵に出場するときは、紋服白足袋を着用しなければならない。
 水入り後の組み直しには、満足するまで行司に注意しなければならない。
 引き分けと認めざるを得ない勝負については、土俵上で決定する。
 審判長は、物言いの協議の時、最終的に決定する。

◎控え力士
 自分の出場する2番前から、所定の土俵溜に着かなければならない。
 土俵に上がった力士に水を付ける。
 水入りの時も、水を付け、まわしを締め直すときは助手になる。
 勝負判定に異議があるときは、物言いをつけることができるが、決定権はない。

◎禁手反則
 相撲競技で次の禁手を使ったとき、反則負けとなる。
 ・握り拳で殴ること。
 ・頭髪を故意につかむこと。
 ・目、または水月(みぞおち)などの急所をつくこと。
 ・両耳を同時に両手ではること。
 ・前立褌をつかんだり、また、横から指を入れて引くこと。
 ・喉をつかむこと。
 ・胸や腹を蹴ること。
 ・一指、または二指を折り返すこと。

◎「土俵の大きさ」は、厳格に規定されている
 土俵の直径は、土俵のできた江戸時代当初より13尺(3m94cm)であった。これは二人の人間が手をつないで伸ばした手で円形を描いた大きさが、最も適した広さとされていたからである。
 昭和6年(1931)4月29日の天覧相撲から現在の15尺(4m55cm)となった。土俵を広げた理由は「相撲独特の瞬間的勝負の醍醐味を少しでも長く見てもらうため」と日本相撲協会が発表している。なお、例外として戦後の昭和20年11月場所(旧両国国技館)の1場所だけ進駐軍(GHQ)の要請により16尺にしたことがある。
 現在、土俵は、「高さが34〜60cm、一辺が6m70cmの正方形に土を盛り、その中央に直径4m55cmの円を20俵の俵で作る」と決められている。

◎「66俵の俵」が、それぞれに機能している土俵
 正式の土俵で使用する俵の数は全部で66俵である。
 土俵の円周となる勝負俵が16俵、東西南北の徳俵が4俵、周囲を囲む角俵が28俵、四角のあげ俵が4俵、土俵に上がる上がり段(踏み俵)が10俵、少し小さめの水桶俵が4俵である。土俵上の俵の高さは、俵の6分を土の中に、4分(約5cm)を土の上に出す。東西南北にある4つの徳俵は、土俵の円の直径より俵ひとつ分だけ外側に飛び出している。相撲が屋外で行われていた時代に、土俵にたまった雨水を掃き出すために俵をひとつ分ずらしていた名残りである。形成不利の力士が俵ひとつ分だけ得をすることから、徳俵と呼ばれている。

◎土俵を飾る「四色の房」の意味は?
 土俵の屋根の四隅を飾る四色の房は、それぞれの色が四季と天の四神を表わしている。正面から左に、東の青房は春と青龍神、南の赤房は夏と朱雀神、西の白房は秋の白虎神、北の黒房は冬と黒い亀の玄武神である。この天の四神は、土俵を守護する意味で四隅に祭られている。天の四神は高松塚古墳の壁画にも描かれていた。
 ちなみに、四隅の房は絹糸を寄り合わせて作られ、一本の長さが2m30cm、太さが70cm、重さが25kgあり、土俵から房の先までは3m5cmの高さになっている。

◎本場所に厳粛な雰囲気を演出する「水引幕」
 「水引幕」とは土俵の上の吊り屋根に張り巡らされている、幅120mの紫色の幕のことである。現在、紫地に日本相撲協会の「桜」の紋章が白く染めぬかれている。力士の精力を尽くし勝負を争うと熱気がほとぼしるため、水を表す。水引幕を張って土俵をしずめたために水引幕と言ったといわれている。また「水は不浄の塵をはらい、その元は清浄なり。(中略)天地人の3つを清めるというにしてすなわち北より巻はじめ、北の柱で巻き止める。」とされ、水引幕は、北の黒房から東の青房、南の赤房、西の白房と張って、黒房に戻る。これは、太陽の運行と四季の移り変わりを表わしている。
 
◎「力水」と「力紙」は清めの作法
 力水は東は赤房下、西は白房下にそなえられた手桶に用意されている。呼び出された東西の力士が、土俵上で一礼し、四股を踏んだ後に、前の取組で勝った力士から柄杓で力水をつけてもらう。そして力紙で口元をぬぐう。この一連の作法を「力水をつける」といい、約1200年前の平安時代の相撲節会の頃から行われてきた。また、相撲が長引き、中断することを「水入り」という。これはもう一度力水をつけてから、相撲を再開するところから由来する。
 日本人は、昔から水と塩には全てを清める力があると信じ、様々な作法に組み込んできたのである。
 
◎「清めの塩」
 清めの塩をまくのも大切な所作である。塩をまく所作は、地中の邪気を払い土俵を清める意味と、力士が怪我をしないことを祈り、擦り傷などの殺菌効果もかねている。現在本場所では、一日約45kgの塩が使われる。
 ちなみに三段目以下の力士は塩をまくことができないが、幕下の力士では、時間に余裕のある場合に限り塩をまくことがある。
 
◎礼に始まり、礼に終わる「花道」からの入場
 花道の呼び名は、約1200年前の平安時代にさかのぼる。相撲節会で相撲人(力士)の出入り口に青竹で垣根を作り、左側から出場する力士は葵の造花を右側から出場する力士は夕顔の造花を髪にさしていたことに由来する。
 力士は自分の取組の2番前に、支度部屋からこの花道を通って土俵へ向かう。土俵の前で立ち止り、一礼して控えにはいる。礼に始まり、礼に終わる相撲の基本がここにも見られる。大関、横綱と対戦する場合、下位の力士が先に入場するのか礼儀である。
 
◎「蹲踞をして塵を切る」は何を意味しているか
 対戦する2人の力士が、腰を下ろして向かい合う姿勢が蹲踞である。蹲踞は相手を敬う所作でもある。仕切線の前で蹲踞をし、両手を前に出して手の平を打ち、左右に広げ手の平をかえすことを「塵を切る」という。
 手の平をすり合わせて打つ所作は、まだ土俵ができていなかった時代に雑草の露で手を清めたことに由来し、これを「塵浄水」ともいう。また、両手を左右に広げて手の平を見せるのは、武器を持っていないことを示し正々堂々と素手で闘うことを誓う意思表示でもある。
 
◎「四股」を踏むのは邪気払いの儀式
 力士は、土俵に上がると大きく2回四股を踏む。四股は、邪気払いの力があるとされ、土俵上で四股を踏むのは意味のある儀式とされている。
 力士は、両足を左右に開き、膝を曲げ腰を下ろし、手を膝に添え、足を交互に高く上げ、下に下ろす。足はつま先から踵へと力を入れてすり下ろすように地面を踏む。別名「力足」とも呼ばれている。ふらつかず、きれいに四股を踏むのはかなり難しく、修練が必要である。
 
◎「四股」を踏むと足腰が鍛えられる
四股は、相撲の基本である。足腰を鍛える重要な基本運動であり、準備運動でもある。
両方を左右に開き、足を交互に高々と上げ、体重のすべてを片方の足にかける。手を膝にそえ、力を入れてつま先から踵へと慎重に踏みおろす。しなやかに美しく四股を踏むのはむずかしい。精神を集中しながら、自分にとって最も苦しい体勢へと軌道修正していくのが四股である。
 
◎「立合い」は、“阿吽の呼吸”が理想
 両力士が、互いの呼吸で立ち上がる瞬間、これが立合いである。この立合いは、“阿吽の呼吸”で行う。この”阿吽の呼吸”は仏教用語で、寺院の門の左右に控え、寺院を守護している仁王や神社の狛犬に由来する。一方の仁王は、口を開いて息を吐いている。この形相が“阿”である。もう一方の仁王は息を吸い込み、口を閉じている。これが“吽”である。
 立合いは、息を吸い込んだときに力が入るので両力士が息を吐き、つぎに八分目ほど息を吸い込んでとめ、その瞬間に立つのが理想とされている。これを”阿吽の呼吸”という。
 
◎「手刀を切る」のも礼儀作法の一つ
 勝ち名乗りを受ける力士が、軍配の上にのせられた懸賞を受け取るとき手刀を切る。
 この手刀の始まりは江戸時代にさかのぼる。千秋楽の結びの三番で勝った小結は矢(以前は扇)、関脇は弦、大関は弓を受け取る習わしがあった。後に大関に変わって弓取り式の力士が弓を受け取ることになり、行司が差し出す弓に手刀を切る所作が行われたのである。手刀は儀式用の作法で、左、右、中の順序で切る。昭和41年(1966)には礼儀作法を重んじる日本相撲協会が、「懸賞は手刀を切って受け取ること」と通達を出している。
 
◎力士の「マゲ」
 力士のシンボルでもある”マゲ”。
 明治4年(1871)8月、維新政府によって断髪、廃刀令が配布されたが,政府高官の相撲好きの人、明治天皇と相撲をとった力士もいた。そのため、力士のみ例外としてマゲが許された。
 力士がマゲを結ぶ大きな理由は、頭の毛をキリッと締め上げることによって、全身に緊張感がみなぎる。また、土俵下に転落したとき、頭部を保護するためである。
 
マゲの種類
・大銀杏十枚目以上の関取、幕下力士で十両と取組む力士、弓取式をする力士のみが結う髪形。マゲの先端が銀杏の葉に似ているのでこの名がある。
・ちょんまげ江戸時代の一般的な髪形
 
◎「すり足」で足の運びに力をつける
 すり足は、足の運びの基本を身につける稽古で、足の裏を土俵から離さないように腰を低く構え、重心を下げて進む。
 土俵上での一瞬の勝負にそなえて、自分独自のすり足を修得しておく。「膝から汗がでる」ほど修練しなければ、せっかくの技の威力を発揮できないのである。
 
◎「鉄砲」で鍛錬した力士の腕は丸太棒になる
 鉄砲は、稽古場にある鉄砲柱や力士同士が互いに向き合って行う突っ張りの稽古で、腕力などを鍛えるための最も重要な基本のひとつである。土俵上では、相手の上半身を狙って強く突っ張り、勝負をつけたり、有利な体勢に持ち込むための技である。
 また、鉄砲は、「すり足」とおなじく、運び足の修得にもつながる。
 
◎「股割り」が柔らかな体をつくる
 稽古は自分で探し求めるものであると知っている力士たちは、股割りなど、一人でできる稽古を黙々と積み重ねていく。股割りは、両脚をいっぱいに開き、上半身を地面につける稽古をいう。
 こうしてつくられた柔軟な足腰はあらゆる動きに対処でき、激しい相撲でのケガも予防できる。
 
◎「明荷」は、関取の証し
 「明荷」は、関取を志した者の憧れの的である。
 力士が十両に昇進すると、この明荷を持つことができ、化粧廻し、取り廻し(締め込み)、*ドロ着など、身の回り品を入れている。明荷は、竹としぶを塗った和紙、べんがら漆で作られている竹行李で、外側は濃厚な緑色、横に朱色で四股名が書かれている。かつては旅行つづらとして一般の人々にも使われていたが、今では相撲界だけに残り、柳行李とともに時代の波に消えてしまった。本場所では、力士の付け人が初日に支度部屋に明荷を運び込み、千秋楽に相撲部屋に持ち帰る。ちなみに行司も十両格以上は明荷を持てる。明荷の大きさは、横80cm、縦45cm、高さ30cmである。*ドロ着:廻しを締めている時にはおる浴衣。
 
◎行司が行う「顔触れ言上」とは
 「顔触れ言上」とは、立行司または三役行司が、一番毎に半紙に書かれた「触れ」を示しながら、翌日対戦する幕内力士の名前を、土俵上で、観客に知らせること。このとき、行司のそばに「顔触れ」を携える呼出しが控えている。顔触れ言上は、横綱土俵入りの後に行われる。
 「はばかりながら、明日の取組を御披露つかまつります。」と、館内に響きわたる声で御挨拶した後に、一番毎に東西の力士名を言上する。この半紙の「触れ」は、行司が肉太の相撲字を使って墨書しておく。
 
◎興行場所に掲示される「板番付」は、由緒ある歴史をもつ
 相撲興行の際に板に書かれた「板番付」が掲示されるが、これは約300年以上の歴史をもつ「紙番付」よりも古いと言われている。
 この板番付は相撲興行に登場する力士名を知らせる立て看板的な役割を果たしてきた。現在でも、その伝統は守られている。両国国技館では正面入口にある櫓の下に、大きな板番付が掲げられている。場所前に行司が約10日間かけて、熟達した相撲字で一字一字書き込む。板番付の形は庵形と言い、これは山形、屋根形の意味である。上部の屋根の部分の「入」の字形には、大入りが叶いますようにとの願いがこめられている。
 
◎「満員御礼」の垂れ幕は、ただ今、連続記録を更新中
  「満員御礼」の垂れ幕は、中入り後の取組開始の柝が入ると同時に、国技館では正面と向正面、東西の4カ所にゆっくりとさがる。また、初日と千秋楽には、日本相撲協会理事長の挨拶が終わると同時にさがる。この満員御礼の垂れ幕が出ると、力士や協会関係者、報道関係者に大入り袋が配られる。中身は戦前は10銭、戦後は10円になった。
 「満員御礼」は平成元年(1989)11月場所(九州場所)11日目から連続している。(平成8年秋場所現在)ちなみに平成8年(1996)名古屋場所10日目で連続600回を数えた。
 
◎昔も、今も、相撲情緒を醸し出す「櫓」
「櫓」は、江戸時代の初めには木戸口の上に上げていた。しかし、後には木戸口の近くに、高い櫓を組むようになった。
 櫓の上から2本の竹竿が突き出され、麻の御幣が付けられている。これは「出しっ幣」と呼ばれ、天下泰平と五穀豊穣、場所中の晴天などを祈るものである。当初、櫓の高さは9間半(約17.2m)と決められ、当時の火の見櫓や狩場の鳥見櫓の10間(約18.1m)よりも半間(約90cm)だけ控えめだった。現在の櫓は19.7mとなっている。
 
◎「土俵祭り」は、新しく作った土俵の地鎮祭の儀式
 土俵祭りは、新しく作った土俵の地鎮祭の儀式である。本場所初日の前日、神官姿に威儀を正した立行司または三役行 司が祭主となり、脇行司2人を従えて行う。日本相撲協会の理事長 、幹部役員、審判委員が列席する。
 脇行司2人による清め秡いに始まり、 祭主が「故実言上」と呼ばれる祝詞をあげたあと、 土俵四隅の四房の下に春夏秋冬の神々に神酒を捧げる。 続いて土俵の由来、勝負の道理、五穀豊穣の祈りなどが込めら れている「方屋開口(かたやかいこう)」が行われる。最後に「洗米・するめ・昆 布・塩・榧(かや)の実・かち栗」の六品からなる「鎮めもの」を土俵の中央に埋め、神酒をかけて15日間の無事を祈り、土俵祭の儀式が終わる。
 
◎「横綱の土俵入り」
 横綱の土俵入りには、雲龍型(うんりゅうがた)と不知火型(しらぬいがた)がある。江戸時代末期に活躍した第10代横綱 雲龍と第11代横綱 不知火の土俵入りが、美しく、感動的であったので、土俵入りの型として後世に伝えられた。しかし実際にはこの二つの型がどのような様式であったか、詳細は不明である。
 現在、雲龍型は、四股のあとに、下の構えで左腕を曲げて脇腹に当て、右腕だけを横に広げる型で、左手は「守り」を示し、右手は「攻め」を示している。一方、不知火型は、両腕 を大きく広げてせりあがる。これは「攻め」の型を表している。また綱の結び目が雲 龍型は一輪で、不知火型は双輪である。
 
◎「懸賞」は平安時代の相撲節会に始まった。
 懸賞は平安時代の相撲節会(すまいのせちえ)の、布・米・弓・刀・馬などの賞品 に始まった。昭和20年代(1945〜)以降は米・味噌・炭などの生活必需品が中心。一律の懸賞金になったのは昭和35年(1960)9月場所から。
 現在、賞金は1本6万円で力士に土俵上で3万円が渡され、2万5千円を日本相撲協会が預かり、本人名義で積み立てられる。5千円は取組掲載料などの費用に使う。取組が不戦あるいは引き分けの場合は、懸賞金は提供者に戻されたり、後日の取組に振り替えられる。ちなみに最多数の懸賞が懸かった取組は、昭和39年(1964)1月場所の第48代横綱 大鵬と大関栃ノ海が対戦したときの26本である。
 
◎力士の髷の結い上げを専門に行う人を「床山」という。
 力士の髷の結い上げを専門に行う人を「床山(とこやま)」という。現在、52名の床山がいて、序ノ口から横綱まで約900名の力士の髷を結っている。
 床山の採用資格は義務教育を修了した満19歳未満の男子で、入門後3年間の見習い期間を経て一人前と認められる。しかし、力士一人一人の髪の特徴をつかみ、力士の結い上がりの好みをも考慮することが必要で、一朝一夕に達人にはなれない。経験と技能一筋の仕事である。



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