西暦のお話
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更新日:
 2009年2月4日


◎西暦の話(1999年12月16日、朝日新聞)

 イエスが生まれたのがいつか、厳密には分かっていない。現在では、紀元前6〜4年頃というのが、20世紀後半の欧米での共通理解だろう。聖書に「(紀元前4年に死んだ)ユダヤ王ヘロデの治世に生まれた」とある記述が根拠とされている。
 岡崎勝世、埼玉大学教授によると、西暦紀元の考案者は、ローマの修道士ディオニシウス・エクシグウスだという。イエスの死から500年ほど後(西暦525年)のことで、復活祭の日程を特定する作業の副産物だった、というのが定説だという。
 イエスがよみがえったことを祝う復活祭は、キリスト教にとって最も神聖な祝日だ。「春分の日の後の、最初の満月の後の最初の日曜日」とされていて、その日は毎年移動し、532年周期で一巡する。
 イエスが復活したのは3月25日とされていた。そこでディオニシウスは、3月25日が復活祭に当たる年を探し、その532年前をイエスが復活した年と考えた。イエスは30歳で死んだと伝えられていたため、その30年前を西暦元年に定めた。当時、最も使われていたのは、ディオクレティアヌスがローマ皇帝になった年(284年)を元年とするものだった。同皇帝はキリスト教徒を厳しく迫害したことで知られていた。そこで、「好ましくない」と考え、ディオニシウスは、イエス生誕を紀元とすることを考えたのだった。
 こうして生まれた西暦が現在のように紀元前、紀元後と分けて使われるようになるのは、1000年以上もかかった。キリスト教圏では長く、創世紀元が力を持っていたからだ。アダムとイブのエデンの園からの追放、ノアの箱船の大洪水などの出来事が、天地創造から何年目かの特定は、歴史学者の大きな仕事だった。
 創世紀元に終止符を打ったのは、他の文明との出会いだった。特に、中国の歴史は確実に聖書の記述を超える古さを持っていた。創世紀元は説明がつかなくなり、紀元前という使い方が発生した。これが17世紀頃である。
 どこまでも拡大が可能な紀元前は、創世と終末の間という限定された空間が特徴のキリスト教的時間の枠組みを打破することを意味した。





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