七福神のお話
  メニュー

 TOPページ 

 日本情報 

 海外事情 

 辞典 

 粉体用語辞典 

 医学の話 

 科学の話 

 食品の話 

 知識の宝箱 

 メモ帳 

  



更新日:
 2009年1月28日






◎七福神(1996年1月19日)
 福徳をもたらす神として信仰される七体神のことを七福神という。弁財天、毘沙門天、大黒天、布袋、恵比寿、福禄寿、寿老人の7人の神様。七福神のうち、日本の神様は恵比寿様だけです。
 それまでの仏教、民間信仰などで福神として信仰されていたものが、経典の「七難即滅、七福即生」や竹林の七賢などにならい、室町時代に「七」に整えられたもの。瑞祥の象徴として絵画、彫刻、芸能の題材とされる。

・恵比寿神(日本)
 記紀神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊邪那岐命(いざなみのみこと)の三男、夷三郎が恵比須だといわれています。イザナギ、イザナミは初め、国産みに失敗して肉の塊を産んでしまいます(蛭子:ヒルコ)。夷三郎は小さな船で九州日向の里から小船で流されてしまいました。流されて、たどり着いたのが、摂津国西宮(兵庫県西宮市)の武庫の裏、夷神社があるところです。
 「えびす」の語源ははっきりしていません。昔は「夷」と書いたようです。「夷」には東方という意味があり、異郷人、来訪人を表しているともいわれます。恵比須神は遠方から福を運んできてくれる寄神(よりかみ)、客神(まろうどかみ)として信仰されたのです。
  恵比須は釣竿を持ち、鯛を抱えています。この姿は、「暴利をむさぼらぬ清廉の心を象徴」しているといいます。網を使って一気に漁をするのではなく、先を見越して竿で少しずつ釣をする、というわけです。そんな地道さが喜ばれ、恵比須は商売人の神様、商売繁盛の神様になりました。

・大黒天(インド)
 丸い頭巾を被り、右手に槌を持ち、左手で袋を背中にかけ、米俵の上に乗っている、というのが現在の大黒天の姿です。大黒天は左手に大袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵を踏まえている蓄財、豊作の神様です。小槌からは宝が打ち出されると言われています。今でこそ、温和な顔をしていますが、元をたどれば大黒天はヒンズー教の破壊の神、シバ神です。
 シバ神は青黒い身体をもつ破壊神で、仏教に帰依すると、サンスクリット語でマハーカーラ(摩訶迦羅)と呼ばれるようになりました。マハーカーラには「偉大な黒い者」という意味があるそうです。
 仏教に帰依したマハーカーラは、飲食を豊かにする神として信仰されました。天竺の諸大寺では、厨房の柱にマハーカーラを守護神で祀れば、何人の僧が訪れても出す食事には困らないとされたのです。福の神というよりは荒々しい神で、台所に入ってくる邪悪を追い払うという性格を持っていたようです。
 台所の神マハーカーラを大黒天として日本に持ち込んだのは、天台宗の開祖最澄とされています。天台宗の多くの寺の厨房に大黒天が置かれるようになりました。この信仰が庶民にも広がっていき、台所に大黒天を祀っておけば食べることに困らないと信じられたのです。
 台所の神ということで、大黒天は主婦の守護神となりました。主婦の台所仕事が上手くいけばその家も安泰ですから、大黒天は更に家の守護神となり、広く信仰されるようになりました。
 このように大黒天が受け入れられていった背景には、大国主命(おおくにぬしのみこと)の存在がありました。大国主命は記紀伝説に登場する日本の神さまで、日本全国の神さまが集まるという出雲大社の主でもあります。神話の中で、大国主命は全国を修行して回ります。兄達の衣類のほか、一切のものを袋に詰めて担ぎ、全国を行脚したのです。大国主命は「ダイコクさま」と呼ばれ、五穀豊穣の神として広まりました。
 大黒天は大きな袋を持っています。これは、中国の大黒天が小さな床机に腰をかけ、手に金の袋を持っていたことに由来すると考えられます。と同時に、大きな袋を背負って全国を回ったという大国主命と混同されたからとも言われています。
 すなわち、大国主命と同一化(習合)したことによって、福の神として受け入れられていったのです。これは、大黒と大国がダイコクと、読みが通じたためです。
 また、農業から商業へと庶民の生業が変化するにつれ、大黒天は商業神としての信仰対象にもなりました。振れば何でも出てくる小槌を持ち、何でもはいっている大きな袋を背負う姿は、無尽蔵の財宝と富の象徴だったのです。
 その小槌ですが、もう少し深い意味があるようです。槌(つち)は土(つち)に通じます。土というのは全てのもの(作物)を生み出すものです。その土はすなわち田(た)。宝(たから)は田から出てくる、つまり、宝は土(田)から出てくるという意味で、大黒天は豊作の神となりました。
 また、大黒天がかぶっている大きな頭巾は、それ以上、上を見ないためで、謙虚であるべきことの教えだそうです。さらに、大黒天が乗っている二俵の俵は、二俵で我慢せよという「知足(足るを知る)」の教えであるといいます。

・弁財天(インド)
 琵琶を持った容姿端麗な女神が弁才天です。普通は弁(才)天と書きますが、七福神の時だけ弁(財)天と書きます。弁天と略されることもあります。弁財天は知恵、芸能。唯一の女性。宝冠をかぶり、青衣の美しい女神で、左手に弓や刀、斧などを持ち、琵琶を奏でるという。
 弁才天はインドの古代神話の大河の神でした。サンスクリット語では「水を有するもの」を意味するサラスバティと呼びます。ヒンズー教では梵天の妃とみなされています。サラスバティは大河の神ですから水と関係があり、水が流れる音にちなんで、音楽の神、弁舌の神(知恵の神)として信仰されていました。
 この女神を仏教の世界に引き込んだのは『金光明最勝王経』です。弁才天の声には、寿命増益怨敵退散の利があるとされ、弁才天のお経を聞いたものには知恵や長寿が授かるとされました。
 日本にやってきた弁才天は、室町時代になると弁財天と書かれるようになり、「才」が「財」にとって変わりました。そこから、弁財天には財産の神としての性格も加わったのです。
 琵琶を弾く白肉色裸形という弁才天の姿は、市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)の姿と習合した結果と思われます。市杵島姫命は天照大神の娘の一人で、市の神として信仰されました。

・毘沙門天(インド)
 甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をした毘沙門天は、もともと暗黒界の悪霊の主だったそうです。ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ、財宝福徳を司る神になりました。夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王の一つになったのです。
 仏教の世界では、護法神となり、サンスクリット語でバイシュラバナと呼ばれました。四天王の一つとして、弥勒山に住み、北方を守りました。右手の槍で怨敵(災害、仏教を弾圧する権力)を退治し、左手の宝珠で人々に福徳を与えてくれるといいます。
 日本では武闘の神様としても名高く、武将達の信仰が厚かったようです。京都の北方、鞍馬寺に祀られ庶民にも信仰され、『陰涼軒日録(おんりょうけんにちろく)』によりますと、長亨3年(1489)の庚寅の日には2万人の人たちが鞍馬山の毘沙門天に参詣したそうです。その人気の高さから、強面ながら七福神に加えられました。
 毘沙門天は勇気、威光。仏法の守護、福徳を授ける神様です。別名、多聞天とも呼ばれ、知恵の神様としても信仰されたようです。

・布袋和尚(中国)
 布袋和尚は、その名のとおり僧侶です。もともと、神様ではありません。9〜10世紀頃の中国、唐代の禅僧契此(かいし)は、常に大きな布袋を担いで喜捨を集めて回ったため、布袋和尚と呼ばれるようになりました。
 弥勒菩薩の化身とも言われ、中国では王朝が交代時に現れてくる一種の聖人である(『江戸の小さな神々』)として、神格化されていきました。大きな腹をして福福しい顔をしていたので、福徳の神とされたのです。
 日本へは禅画のモデルとして入ってきました。京都では伏見人形の布袋像を集める習慣があり、その風貌から日本でも人気の福の神になったようです。日本では円満の相が尊ばれ、七福神の一人として信仰されるようになったようです。布袋尊は健康、和合の象徴です。

・福禄寿(中国)
 福禄寿は道教の星の神様だそうです。南極星の化身(南極老人)で、寿老人と同体異名だとも言われます。
 福禄寿の正体は、はっきりいって、よく解かりません。書物によって星の神様(福星、禄星、寿星の三つの星の神様が合体したともいわれる)であったり、仙人であったりします。確かなのは、中国の神様(仙人)で、画題として室町時代に人気があったということです。おそらくは、庶民の信仰の対象ではなかったのでしょう。
 頭が長いという独特の風貌が絵として面白く、福禄寿という名前がいかにも縁起がよさそうなので、七福神におさまったのではないでしょうか。
 福禄寿は幸福、財産。経巻を結びつけた杖を持ち、鶴を従えている。幸福や出世、人望などを授けてくれる。

・寿老人(中国)
 寿老人は白ひげをたらし、巻物を先に付けた杖を持ち、鹿を伴っています。中国宋時代元祐中の人で、天南星(または寿星)の化身だといわれます。古代中国の道教の神で、不老不死の仙術を修め、南極老人とも言われるようです。しかしながら、福禄寿と同様、実態はわかりません。福禄寿、寿老人を生み出した中国でも、しばしば二人の仙人は混同されています。
 寿老人という名前のとおり、長寿の神様として信仰されたようです。

・宝船
 七福神は、江戸中期に定着したようです。七福神と宝船は、切っても切れない関係にあります。宝船というのは、宝を満載した船の絵で、「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」という回文が書かれているものもあります。この宝船の絵を、大晦日から元旦にかけての夜に枕の下に敷き、良い初夢を見ようという風習が江戸時代に流行ったそうです。
 実際には、大晦日は忙しくてゆっくり夢など見ていられないということで、元旦の夜に見る夢を初夢とし、元旦に夜に宝船の絵を枕の下に敷きました。その宝船に七福神が描かれたのです。
 いつ頃から七福神が宝船に乗るようになったのかは不明ですが、宝永年間(1704〜1711)に大阪で出版された俳諧本の挿絵が現存する最も古い書物のようです。このことから、少なくとも、江戸中期煮の大阪には七福神が宝船に乗っていたことが分かります。
 しかし、一般的には江戸のほうが七福神が乗った宝船が多いようです。また、古いものには七福神が乗っておらず、新しいものでも将軍家、禁裏、武家の宝船には七福神は乗っていないそうです。七福神が乗った宝船は、江戸の庶民に流行したもののようです。
 宝船は、元旦の夜に枕の下に敷いて使用します。そして、初詣で、七福神めぐりをすることが流行りました。宝船と七福神は、正月の縁起物としてセットになっていたようです。
 現在では、何も乗っていない宝船の絵を準備し、七福神めぐりをして、七福神のスタンプを押していき、七福神の宝船を完成させる、という集印帖の役割をもったものもあるようです。



inserted by FC2 system